「神の一手を極めるまで消えない」はずの藤原佐偽 (サイ) はなぜ消えたのか。この記事では、ハマりすぎてヒカルの碁を30回は見直した私が、サイが消えた理由を考察していきます。
アニメヒカルの碁 あらすじ
神の一手を極めるために千年もの間この世にとどまっていた最強の棋士、藤原佐偽 (ふじわらのさい)。サイの霊に影響をうけ、進藤ヒカルは囲碁をはじめた。そして努力の天才塔矢アキラと出会い、衝撃を受けたヒカルはプロの世界を志す。
サイの師事もありメキメキと腕をあげていくヒカルだが、力がつくに連れて「自分が打ちたい」との思いが強くなり、「お前は引っ込んでろ、俺が打つんだ」とサイを邪険に扱うようになる。ヒカルがついにプロとなり『天才棋士サイ』の強さをようやく理解した時、サイは目の前から消えてしまっていた。
消えた天才棋士、藤原佐偽 (ふじわらのさい)
最初はあかるくヒカルの身体を通して、純粋に多くの人と対局を重ねていた。
しかしサイがあまりに強すぎるがために、どこで打っても「この強さはなんだ」とたちまち噂になってしまう。そんなサイが「神の一手にいちばん近い者」と唯一認めたのが、塔矢名人 ( ヒカルのライバル 塔矢アキラの父 ) であった。
「あの者と打ちたい」その思いを握りしめ、時に無理をいいヒカルを困らせながらも、最終的にふたりはネット碁で対決することが叶う。
「サイが消えた」
これからもっとお互いに極めていくことができる。ようやく訪れた幸運だったが、サイは「自分にはもう時間があまり残されていない」ことに気づき焦り始めていた。
ありあまる時間と未来があるヒカルが羨ましくてたまらないサイ。ヒカルのことが大好きなだけに、裏目に出てしまう想い。ヒカルは気づかずに進み、二人の間にすれ違いがうまれていく。
そしてヒカルの遠征がおわった翌日、気持ち良い風が舞い込む部屋のなかサイは「ありがとう、ヒカル。たのしかった…..」と別れを告げたが、その声はヒカルにはもう聞こえていなかった。
なぜサイは消えたのか
それはアニメヒカルの碁、第60話でのこと。現世に残っていたい、もっと碁を打ちたいと思っているのにサイは消えてしまった。
それはなぜか、理由は消える直前に、サイが自ら悟り語っていた。
140年前、私にその身を貸し与えた虎次郎。
虎次郎が私のために存在したというならば、私はヒカルのために存在した。
ならば、ヒカルもまた誰かのために存在するのだろう。
その誰かもまた、別の誰かのために。
千年、二千年がそうやって積み重なっていく。
神の一手へ続く遠い道のり。
私の役目はおわった。
あ、そうだ。ヒカル、そうだヒカル。
私の声届いている?ヒカル?たのしかった….
私はヒカルのために存在した
人はつねに影響しあっている生き物で「誰かは、また違うだれかのために存在している」。巡り巡って自分はヒカルのところにたどり着き、サイが与えられるすべてをヒカルは受け取っていたのだ。
ヒカルはこれからも、多くの人に出会い数えきれないほどの対局を重ねていく。そしてその影響を受けた誰かもまた、誰かに影響を…. その繰り返しで時が積み重なっていく。誰もが皆、意図せずとも、その巨大な時間の流れのなかにいるのである。
サイが果たさなければならなかった役割
平安時代には宮中で碁を打っていた。江戸時代には虎次郎の身をかり本因坊秀策として名を馳せた天才棋士、藤原佐偽 (ふじわらのさい)。サイがこの世に止まり続ける理由、それは「この世への執着」「神の一手を極めていないから」だと思っていた。
でも違った、人は誰かのために生まれてくる。それは寅次郎と出会って身をかり切磋琢磨することで自分の碁を高めることができたように。
そしてその更に力を高めたサイが、今度は若い芽である進藤ヒカルの人生に大きな光を灯した。止まり続けてた砂時計が動き出した理由、それはサイが役目を終えたからだったのだろう。
主人公の成長物語にして、最傑作
なんども1話からリピート再生したくなるのは、これは『主人公ヒカルの成長物語』であり、そこにうまく起伏のはげしく愛くるしいサイ (笑) が絡んでくるからだろうか。
なんどボロボロになっても、サイにうまく導かれながら高みを目指して登っていくヒカルの姿にとても元気をもらえるのだ。サイとの別れは悲しいものでしたけど、これを乗り越えてまた何倍も強くなったヒカル。
復活した後のヒカルのなかに彼のなかに、サイが見え隠れしていくのも見所のひとつかもしれない。
あとがきにかえて
究極のところ、そういった意味で人生の始まりと終わりは決められているのかもしれない。
でも大切なことは塔矢名人がいった言葉「何だってできるよ、私にはこの身があるのだから」にこめられている気がするのです。お腹が空いてイライラしたり、怪我をして痛い思いをしたり、寒かったり暑かったり。
身体があるから不自由なことはあるのだけれど、おいしいものを食べて幸せを感じたり、たまに吹く風が気持ち良いと感じたり。人をあたたかく感じたり幸せを感じられるのも、この身があるからなのだ。